母親が子どもの世話をすることの意味

医学博士シルバーナQ.モンタナーロ『いのちのひみつ』より

母親としての世話とは何でしょう?

 母親が食事を与えたり、体温を保てるように適切な衣服を着せたり、おむつを交換して清潔であるようにしたりするのは、子どもが生きながらえるために当然必要なことです。それだけではなくて、まさに世話をしているそのときに、母親は子どもがからだを充分に動かせるように配慮したり、感覚的な経験を与えたりすることの重要性を考慮しなければなりません。

世話をすることのもっとも重要な意味

 母親が世話をすることのもっとも重要な意味は、そのとりまく世界を子どもに紹介することです。子どもは母親と一緒にいるときを、安心感やからだの触れ合い、食べもの、人々とのかかわりやことばといった、人生で体験するもっとも基本的な事柄についての情報を受け取ることに使います。このようにして、子どもは自分が生まれた世界がどのようなところであるのか、あらゆる側面から理解していくことになります。

 母親が世話をしてくれているときに、子どもはからだを動かしたり、いろいろな感覚的な体験をしたりしますが、それは子どもにとって成長する機会となり、また、そうした体験を通して、からだと心がひとつにまとまり、心身の統合がなされます。こうして、自分自身との良い関係をつくることができます。さらには、もっと重要なこと、安心感と安定感という内的感情を持つことができるようになります。

 子どものなかで「発達する人格」を、自我(ego)と呼びます。この自我がいかに強く育っていくかは、自分が必要とすることを満たしてほしいという折々の子どもの思いに、どれだけ応えられるかという世話をする側の能力にかかっています。子どもは自分が何かを必要とするときには、それに応じてもらえるのであり、さらに、母親を自分のそばに呼ぶ力が自分にはあるということに気づいていきます。自分が何かを必要とするときには、それを求め、そしてそれに応じてもらえるのであれば、自分も外界に対して影響を及ぼすことができるのだということを体験します。

 母親が世話をするたびに、子どもと外界との関係は常に新たなものになり、自分(ego)と自分ではないもの(non-ego)との識別、子ども自身と外界との区別がきちんとつくようになります。

 しかし、たとえすばやく対応し、子どものことをとても大切に思い、よかれと思って対処しても、子どもが必要とすることのほんの一部にしか応えていないという危険性がいつもあります。赤ちゃんや幼児が泣くと、おとなは子どもの口のなかに食べものやおしゃぶりを押し込んで、なんとかなだめようとしがちです。このような対応は、子どもが本当は何を必要としているかについて誤解していたり、目の前にいる「ちっちゃな」人間に対して間違った考え方をしていることが多いのです。たいていの大人は、赤ちゃん(あるいは幼児)というものは、始終口寂しく、食べものしか興味がないのだと思いこんでいるようです。

 新生児の脳はよく発達していて、神経も緻密な動きをしているということをしっかり心にとめておけば、こんなおざりな対応を避けることができます。胎児期と誕生後の数ヶ月ないし数年間、子どもは特殊な状態にあるということを真剣に考えてみる必要があります。この時期、子どもの心(psyche)の成長は、からだの成長よりもずっと進んでいます。

 ですからこの時期の子どもは、自分が心のなかで何を望み、必要としているのかを、大人に理解できることばで話したり、わかりやすい仕草などで伝えることができません。このように、子どもは周囲から理解してもらえず、必要なものも得られないという痛々しい状況にあるため、どうしても母親のきめの細かい手助けを必要としています。子どもの心は力強く働いていますが、からだはそれを表現することができません。ですから、子どもが本当のところどのような状況にあるのかを理解して、子どもの身になることができなければ、子どもの欲求不満は耐え難いものになってしまいます。

 自分には何もできないという感情が頻繁に起きると、子どもの自我は環境のなかで落ち着くことができず、絶え間ない欲求不満状態に陥ります。人生のあまりに早い時期に、自分はできないのだという体験をしてしまうと、ある種の間違った情報が脳に刷りこまれることになります。

 この状態では、たとえ子どもが話せるようになり、自分のことは自分でできるようになっても、自分にはできないという劣等感は、依然として残ります。この世界は、助けをまったく期待できない、冷たいところであると認知されてしまいます。